第9期生
(1982年度)
10周年記念誌より抜粋
十周年に寄せて 五十七年度会長 YSさん
私と成瀬少年野球教室との出会いは、長男が四年生の時、昭和五十二年秋の頃だと思います。「今日は工業団地で練習試合だよ」と言った言葉をたよりに、家内と小さな弟二人を車に乗せてさがしてみました。ある工場内のグランドでジュニアーホークスと試合をしているのをみっけました。スコアーをつけるお母さん一人と石黒先生とそら寂しい応援の中でたしか負けた試合だったと思います。その翌年家内が会計を受けてきたのをきっかに一家中の野球教室への応援が始まりました。
昭和五十四年には県大会に出場する事が出来、この年度より役員の人数もふえて後援会もより活動的になりました。五十六年度には県大会優勝というすばらしい実績をのこしました。
今年度も多くの大会が有りましたが、まだ記憶に鮮明に残っているのは、県北西部大会です。秋の長雨により二ヶ月にわたっての長期の大会になり、雨の中での試合、秋の運動会終了後の試合等を勝ちぬき優勝できた事です。石黒先生をはじめ指導者の方々の厳しい御指導と子供達のたゆまぬ努力の結果だと思っています。
この様な歴史ある野球教室の会長を引受けることになり非常に緊張した一年でもあり、また楽しい一年でもありました。無事に任期をおえたのもひとえに役員の方々と後援会の方々のお陰げだと感謝しております。六年間の子供とのっきあいの中で色々な思い出が浮かびます。成長した子供達と将来、思い出話しが出来る事を楽しみにしております。成瀬少年野球教室のますますのご発展を心からお祈りします。
アメリカでの生活 RA君
ぼくが、アメリカに来てもうそろそろ二年になる。こちらに来ていろんな事があった。英語がしゃべれない。かみの毛がぼうずだったので笑われた。手続きに苦労をしてつれてきた犬は死んでしまうし数えたらきりがないほどだ。クラブの試合などはいつも土曜日にあります。しかし、ぼくは、あさひ学園という補習校に土曜日に行っているので出席できません。だからぼくは、個人のテニスやゴルフをやっています。野球をやっていたせいかけっこううまくできます。今ぼくは、ドラムに熱中しています。ピアノをやっているのでビギナーからインターミディエードに一発でなれました。もうコンサートにも二回でました。とってもうれしいです。アメリカでしかできないことをやりたいと思っています。
最後に成瀬少年野球教室十周年おめでとうございます。
思い出 DI君
ぼくが野球部に入った時、最初は楽しそうに見えました。だけど時がたつにつれて、行くのがいやになってきました。いやになってきた理由は、ぼくたちだけ野球ばっかしやっていて、他の人は色々な遊びをしてうらやましかったからです。
冬に入っていい時がありました。それはサッカーをすることです。野球部の人みんなで一時間ぐらいやりました。しかしそのあとがいやでした。きつい練習はやるからです。そしてまたいい時がきます。それは、野球が終って家に帰ってねることです。
だけど今考えて見ると、もっと思いっきりやっておけばよかったなあと思いました。
行くかさぼるか SO君
ぼくは小学校の時、野球部に入っていた。小六の時のある日、朝からくもっていて今にも雨がぶりそうな空たった。放課後になって同じ野球部の六年のS君といっしょに家に帰った。そして練習の始まる十五分ぐらい前までS君といっしょにぼくの家で遊んでいた。ついに雨が降って来た。最近の練習がきびしいのと雨がふっているのであまり練習に行く気がしなかった。それにS君は、セブンイレブンに行って立ち読みしていれば、家に電話で練習に来いといわれてもだいじょうぶだし、雨があがっても本にむちゆうでわからなかったと言えばいいと言った。しかしぼくは悪い心をとりのぞいて自分で自分の顔や胸を三、四回だたいて気合いを入れて成小グランドに行った。練習に行く方の気持が勝ったのである。しかしS君はセブンイレブンで立ち読みをしに行って練習には来なかった。
小学校と中学校のちがい HK君
ボクは、中学でも、なぜか野球に入りました。小学生の野球と中学野球のちがいは、毎朝六時三十分までにこなくてはならない事、あとボール係や、小屋係などと言った仕事かあります。ボクは、小屋係で、道具などしまったり、カギを開けたりします。
あとほかは、先輩とかの区別があることなどです。先輩と言うから、「こわいのかな~。」と言っていたんだが、すごくやさしく、おもしろい先輩達で、良かったです。
野球をやって MS君
ぼくは、小さい時からぜんそぐで体が、弱く、よく学校を休んでいました。
兄さんが野球をやっていたので、三年生になって野球部に入りました。三年の頃はあまり練習もきびしくなくって、練習数も少なくつてとってもらくでした。五年六年になってくると試合の数も多く、練習もきびしくなります。ある日、ぼくは病気にかかってしまいました。まだ治っていないのに日曜日、練習へ出ていきました。みんなといっしょにランニングをしたりしたけど、みんなについていけませんでした。途中でぬけだし、とても苦しい思いをしました。あの時のことは、忘れません。野球をやっていたおかげで体は、じょうぶになり、卒業してまだ一度も、病気にかかっていません。そしてぼくの体のプラスになりました。
初優勝 YS君
ぼくは、成瀬で第九代目の主将をやりました。ぼくが四年間野球をやって一番心に残ったのは伊勢原の総体の「初優勝」でした。
昨年までの成瀬は、伊勢原の春、夏の大会で優勝しているのに、今年はまだ一回も優勝していません。その時の気持は、「早く優勝したい。」これだけでした。
夏の合宿も終わり、市の総体がやってきました。緑台ジュニア、高森台、高部屋に勝ち初めて決勝戦まできました。相手はジュニアホークスです。
「プレイボール」この一言からみんなは緊張しました。さすが決勝戦、緊迫し、最少得点の一点を争う試合となりました。いわゆる投手戦です。NとAの投げ合いで、決勝戦にはふさわしい試合に、成瀬は二対一で勝ちました。これは初優勝だし、みんなで協力して勝ったので、とってもうれしかったです。
思い出 MT君
野球の思い出、と言われたら、いっぱいありすぎて何を書いたらいいのかなやんじゃいます。練習、親子大会、県大会、ケンカ……etc。この一つ一つはボクの大切な思い出なのです。特に思い出に残ったのは、友達との思い出です。野球の友達はとてもよかったです。時にはケンカをし、時には大家君の家に集まり会議をしたりとても楽しい日々でした。ボクが五年生の時、野球にものすごく燃えることができたのも、友達がよかったからかも知れません。
まあ。小学校時代の思い出の一つとして、成瀬少年野球教室のことを時々思い出して見たいと思います。
思い出 KT君
今、ぼくは中学校一年生になった。最初、何の部活に入部しこうかまよった。野球部に入部しようとしたけど、今まで四年間も野球を続けてきたのだから、今度はちがうのに入部しようとしたけど、考えたあげく野球部に入部することにした。それは今まで続けてきてうまくなったのに、それを見拾てたくなかったからだ。
思えば小学校三年生のころ、朝、登校して先生にあったとき入部届を出した。それは野球がとても好きだったからだ。それから四年間、野球を続けてきた。特に思い出は、夏のあの合宿の厳しい練習にたえて十七連勝してついに総合体育大会で初優勝したときのことである。あの時の感動は今でも忘れられません。やっぱり努力するといい結果が生まれるのだとつくづく感じた。
あの少年野球の厳しい練習がきっと役にたつと思って、今僕はがんばっている。
「けじめ」と行動 YT君
ぼくは、スポーツにしろ、遊びにしろ、勉強にしろ「けじめ」という言葉を忠実に守りたいと思う(本人は守っていたいが)。
例をいうと成瀬少年野球教室はたいてい練習開始時間が多かれ少なかれおくれる。理由は、人が集まっていないこともあるが、やはり各自の心の底に「まだ始めたくない」そういう意識が存在しているからではないだろうか。そこで「ヤルゾ」という気を起こす。これが「けじめ」だと思う。この「けじめ」さえ守れば素晴らしいと思う。
練習が始まっでもまだしゃべっている人がいるけども、ぼくはそれぐらいはかまわないと思う。なぜなら二時間も三時間も、ましてや十時間以上やる休日に頭から終りまで心を張りつめられないからである。しかし、のべつまくなしにしゃべるのも考えものである。
野球は根性 JN君
ぼくは、五年生の二学期にこちらに転校して来た。始めのころは、コーチや監督がとてもこわくて、やめそうにもなった。でも、そこでくじけてはいけないのだと毋に言われた。
そしてこのぼくに、六年生になってエースの座がまわってきた。
ピッチャーは、いつも孤独だったが、そのつらさに耐えたからこそ優勝もでき、また、最後まで続けられた理由だと思う。
それがほんとうの根性であると、自分でも身にしみるほどに、よく分った。
この成瀬少年野球教室を卒業した人は、一つの山をのりこえた、ぼくらの仲間たちである。
野球教室での思い出 HH君
野球教室をやってきて一番の思い出は、やっぱり優勝した時です。伊勢原市総合体育大会、県北西部親善野球大会、成瀬招待大会、鈴川杯親善野球大会などで優勝したけれど、特に成瀬招待大会の時が一番心にのこりました。なぜかといえば、この時ぽくもヒットをたくさん打って活躍したからです。あと石黒監督におこられた事、メカタさんなどのだくさんのコーチの方々にしごかれた事など、ほかにもいろいろとありました。ぼくは野球をやってきて本当にょかったと思います。それは中学校の部活などで苦しい練習をしても、野球の時に苦しかった事をしていたので役に立つからです。一番苦しかっだのは、比々多と三位決定戦をやって勝って、その後にすごくきびしい練習をやった事です。きびしいけれど楽しい事もありました。
今、考えて見ると野球部に入って本当によかったと思います。
野球部の思い出 MF君
ぼくは、四、五年の時と六年の前半までお世話になりました。入る前は、ゆううつでたまりませんでした。それは、野球に全く自信がなかったからです。ところが入ってみると楽しくて、毎日野球ノートなど一生けんめい書きました。五年になって後はいが入って来てうまい人もだんだん増えてくると野球が嫌になって、六年になったら、とうとうやめてしまいました。しかし学校から帰る時に野球部のみんなが練習している所を見ながら、ふと思いました。「やっぱりやめなければよかった。続けることも大切なんだな、やめなければよかった」となやみました。一週間くらい夜もねむれない日が続きました。
しかし、現在は水泳に入って、ぼくより上手な人がたくさんいるけれども、なんとかがんばっていきたいと思います。
十周年記念(中学にいって) KM君
野球部に入って良かったことは、やっぱり体力がついたことです。
テニス部で、グランドを回った時、一年生テニス部員の件で、二番目に早かったことです。野球の素振りからテニスの素振りに変えるのがむづかしいと思う。しかし僕はもともとアッパースインダだから平気かも知れません。
テニス部の一年生は暑い中いつも球拾いだからすごく疲れます。野球部の時は、動いていたからいいけど球拾いは、ずうっと立つたままだからすごく疲れます。
市内大会の時、S先輩とペアーを組んでいる人が休んだから僕が代わりに試合に出たのです。なぜかと言うと、去年僕の兄がキャプテンだったからです。試合に出てわかったことがある。石黒先生は、テニスが「簡単だ」といったけど、試合に出てすごく難しいと言う事がわかった。
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